冷却する事無き吾が冷蔵庫(食人賞応募作品)

また低く唸り声をあげています。台所の冷蔵庫です。このところずっとそうでして、私も最初は無視を決め込んでいたのですが、何日経っても已む気配がありません。寝るにも眠れないので、ここはひとつ直接尋ねてみることにしました。スリッパを鳴らして台所に向かいます。
もしもし、どうして泣いておられるのです?
「ええ、わたくし冷蔵庫は、畏れ多くも叶わぬ願いを抱きまして、その叶わぬが故に、嘆き哀しんで居たのでございます」
叶わぬ願い?
冷蔵庫が何を願うというのでしょう。脱臭剤を置いて欲しいとか、霜を取って欲しいとか、私に出来ることならよいのですが。
「そういう事ではないのです。わたくしはその、お恥ずかしながら、この感覚をご理解いただけるかどうか甚だ恐縮ではありますが、思い切って申し上げますと……『食するという事』をしたくて堪らないのでございます」
食するという事……。
私の合点のゆかないのを察したのでしょう、冷蔵庫は続けました。
「わたくしども冷蔵庫は、人間諸兄の食の守り手として、昼に夜にと働いてまいりました。暑さから陽射しから食物を守り、なるべく新鮮のままに人間諸兄にお届けするのが、わたくしどもの役目でございます」
いや、それは存じておりますが……。
「たとえば夏の盛り、外から帰ってきた子どもたちが、こぞって私に群がっては、アイスキャンデーを取り出してゆく時のあの嬉しげな表情。疲れた顔で帰ってきたお父さんが、風呂上りにビールをあけたときに見せるほっとしたような一瞬。ちょっと奮発した食材を詰めながら、今日の夕飯はみんな驚くわと頬ほころばせるお母さん。いずれも私にとって、人間の食の喜びを想起させるに十分でありました」
……それで、自分でも食してみたくなった、と。
しかし、食することを「食物を己が胎内に納めること」とするならば、冷蔵庫さんはすでに十分食しているのではないのですか?
「そこなのでございます。わたくしに詰められた食材は、いずれは取り出され、人間諸兄の腹中に納まる定め。わたくしの腹中に留まらぬものを、果たして食したと云えるものでしょうか」
そこで冷蔵庫はまた嗚咽を始めました。私もまた俯いておりました。食を行う人間として、私はそれを奪われることを想像しました。冷蔵庫を震わせている苦しみは、たぶんそれに近いものなのでしょう。
私は、なんとしてもこの冷蔵庫に、食するという事を味わわせてやりたい、と心底思いました。しかし方法が見つからなかったのです。いかなる食材を与えても、いずれ取り出されてしまうのならば、それは冷蔵庫が食したことにはならないのです。人間に取り出されることのない、食材。そんなものがこの世に存在するのかどうか――

そうだ。

私は冷蔵庫の扉に手を掛け、「な、何を」言いかけた彼を制して思い切り開きました。およそ人間が取り出すはずのない食材、ありました。それもこんな近くに。

私は私を覆う包装材を全て脱ぎ落としました。それは食材ではないから。彼の胎内から染み出た冷気が肌に纏わりつき、たぶんそれは人間ならば吐息や唾液のようなものなのでしょう、ああ今私は彼に食されようとしている。彼の中の間仕切りが邪魔です。そんなものは引っ張り出してしまいましょう。マーガリンや豆腐も諸共に。どうせそれは彼にとって食材ではないのですから。

私は彼ににじり登ると、体育座りのようにして身を納めました。過不足はありませんでした。窮屈な手で扉を閉めるのには多少骨を折りましたが。しかし閉めてしまえば、内側から開くことはかないません。当たり前です。食材に逃げられてしまいますからね。もっとも私は望んで彼の食材となったのですから、逃げ出すつもりは毛頭ありませんでした。

そこは人間の胎内とは正反対の寒さでした。彼の声はもう低い唸りでしかありませんでした。赤子の聞く鼓動のように安らかでさえありました。いつか聞いた嗚咽に似ている気もしましたが、もう気になりませんでした。

……

食人賞応募作品
http://neo.g.hatena.ne.jp/keyword/%e9%a3%9f%e4%ba%ba%e8%b3%9e
この文学はフィクションです。冷蔵庫に入るのはとても危険なので、良い子は真似しちゃいけないよ。