「考えない勇気」は勇気なのか?
無駄遣いではなく出し惜しみ
http://d.hatena.ne.jp/kokorosha/20080402/p1
この話をまとめると、「友人Aは自己中心的な人が嫌い」という、ただそれだけのことなのです。その人の性格の良し悪しを考える上で、血液型占いを経由する必要がまったくないのです。これもけっこうな思考の無駄遣いといえます。血液型占いについての話は、だいたい血液型占いという概念を不必要に経由することが多いですね。
私たち読者とココロ社さんにとっては、この話における血液型占いはまったくもって無用の長物です。しかし、友人Aさんにとってはどうでしょうか。ちょっとシミュレートしてみましょう:
○○ってなんかムカツクのよね ↓ でも「○○がムカツク」だけ言うと、なんか自分のほうが悪い奴みたいね ↓ そうだ、○○はB型よ。B型は自己中心的と言われるから、これを踏まえれば納得されやすいはずよ!
この三行目がキモです。友人Aさんは自分の結論「○○はなんかムカツク」をココロ社さんに納得してほしくて、誰かの結論「B型は自己中心的と言われる」を根拠として使っていたのではないでしょうか。しかし、ココロ社さんが事実「△△さんもB型である」を反証として出すことで、友人Aさんの結論は揺らいでしまったのです*1
友人Aさんの結論が揺らいだのは、「思考の無駄遣い」をしたからではありません。むしろ、誰かの結論「B型は自己中心的と言われる」を、それが根拠として十分なのか考えないで使ってしまったからです。別に難しい統計や理論は必要ありません。「△△さんもB型である」という身近な事実があれば、根拠として不十分なのはすぐ理解できたはずです。
しかしそれをしなかったために、友人Aさんは不十分な根拠を使ってしまいました。今回はココロ社さんにステキなネタを提供したという点でむしろ褒められるべきでしょうが、これがビジネスや国際政治の世界でのことだったら、ちょっと困りますね。
同じ結論を持たない人もいるから
水からの伝言について、ココロ社さんは次のように結論付けます:
- 本当だった場合→人に優しくしよう
- ウソだった場合→この件はこの件として、人には優しくするよねー
ええ、みんながみんなこの結論に到達していれば、水からの伝言は語られることはなかったでしょう。この話が小学校の訓話で用いられたという話を聞いた人は多いと思いますが、訓話で用いられたということは、「説得の根拠として有効だと思われた」ことを意味します。
残念ながら、今の日本の大人たちは、「この件はこの件として、人には優しくするよねー」という結論を子どもたちが持ち合わせているとは思っていません。ちょっと校長先生の脳内をシミュレートしてみましょう:
子どもは平気で悪い言葉を使う。死ねとか馬鹿とかわめく ↓ 悪い言葉を使わないようにさせられないか。強制では効果はない ↓ おお、言葉が水に働きかけるのか。よし、今度の朝礼でネタにしよう!
ただ結論「悪い言葉を使うな」だけでは子どもは納得しません。だから根拠が必要になるのですが、誰かの結論「悪い言葉を使うと悪い水の結晶が出来る」自体が根拠として不十分でした。なので、この校長先生の結論も揺らいでしまいます*2
思考はしている、でも、していない
ここで今まで出てきた人たちを振り返ってみましょう。
- 友人Aさんは、○○さんがなんかムカツクと表明する(=行動をする)ために思考していました。しかし、根拠への思考が不十分でした。
- 校長先生は、子どもに悪い言葉を使わせない(=行動をする)ために思考していました。しかし、根拠への思考が不十分でした。
いずれも、ココロ社さん基準「行動するために思考することにすれば無駄がない
」に照らし合わせれば、無駄な思考では決してありません。むしろ、思考は不十分だったのです。根拠に対する、思考が。
そして、ここからが一番大切なところです。
根拠は、相手に結論を納得してもらうために必要なものです。この「相手」には、自分自身も含まれます。
自分が出した結論への根拠が、自分が納得するにふさわしいものであるか?
スプーン曲げが本当でもウソでも、玉子丼を食べて寝るのに変わりはない。本当にそうですか? 食べたかったのはいくら丼ではありませんか?
格差社会だから給料のいい仕事を探す。本当にそうですか? よしんば自分が高給取りになったとして、他の人たちはどうなりますか?
思考をなるべくせずに結論が出せたら楽でしょう。しかし、その結論が本当にふさわしいものであると確信するためには、根拠が必要で、その根拠が本当にふさわしいものであると知るためには、思考が必要なのです。
最後に
思考の無駄にお付き合いくださいまして、まことにありがとうございました。